2017年12月15日

身体を離れない

個人的には、意拳は内家拳そのものであると思っている。元々が形意拳をベースとして数々の武術の基底にあるものを統合したものであるということが理由のひとつであるが、そういった歴史的なものを別としても、内家拳を武としてしか理解しなかったら片手落ちであり、養生、哲学、精神、芸術として何かを生み出すものであると言われるように、内的な稽古のなかからまさにそういったものを感じるからでもある。
ただ、そもそもは武として学ぶ中で派生的に生まれるという体系であろうと思うので、身体を離れては意味がない。先に哲学、先に芸術があるということではないので、手段と目的を間違わないということでもあろう。原理原則の言い方でいてば、物事には主従があるということの現れでもある。原理原則が身体技法の要諦であり、そのまま哲学の一部でもあるなどと考えるのは行き過ぎか。
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posted by 池山 at 06:36| 東京 ☁| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月13日

表現が集約

トンボが水面をチョンと触れるようにという表現がある。初心のころには、相手の反応を引き出すこととして学んでもよいものと思うし、それで十分用に足る。練功が進むと、別の表現である、熱い鉄板に触れたように、急ブレーキをかけたように等々と同様なものかと思えるようになってくる。いわゆる、一触即発、一発即止。何を発するのかや、どう発するのかは本質の話であるが、そこに集約されてくるように思える。
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posted by 池山 at 06:23| 東京 ☀| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月08日

肘を張る

基本的な肩架では肘を横に張る。この形は特徴的なもののように思うが、稽古を長く続けても忘れがちになるところである。この場合、同時に肩を上げないことや、肘の上げすぎという場合もあって、よくよく考える必要のあるところと思う。
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posted by 池山 at 06:42| 東京 ☀| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする